「わかる」ということ。

「論理的に正しいということ」と
「感覚的に正しいということ」は
重なる時もあるけれど
重ならない時もある。


たくろふさんのblogではこのことがわかりやすく説明されています。


たくろふさんのblogの中に出てくる

「pならばq」という論理形式があるとする。この際、前提のpが偽であれば、後件qが真か偽かに関わらず、命題全体が真になる。


たるみも浪人時代に某予備校のN先生に
このことを習いました。
(よくわからないけどそれ以外の先生は
高校でも予備校でもこのことに言及したことがなかったように
記憶しています。なんでだろう?)


この論理形式は感覚的にわかる類の問題では
ないんだよね。
でもこの命題全体を真としないと
いろいろなところで矛盾が生じてくる。
論理的には正しいけど、感覚的に正しいとは自信を持って言い切れない。
そういう例の一つだ。



ここからは一人言。

法律を勉強していてもよくこの状態になった気がする。
その難解さと居心地の悪さに頭をもたげ、
その都度投げ出していた気がする(汗)
元来なまけもののたるみの悪い癖であり、
直したいところでもある。
感覚的にわかることができる問題だけではない
ということがわかっていたのに。


当時自分の置かれていた環境もこれに拍車をかけた。
論理的な正しさに目を向けられるようになる前に
そして全体に目が向けられるようになる前に、
「法律=無力なもの」
という意識が日々の勉強からもたらされる苦痛と
そしてたるみの周りで起こった救われない出来事によって
強烈に刷り込まれていった。
これは大学4年間ずっとだった←一度ハマると抜け出せなかったな。
今でもその思いは変わっていない。
そして今もその時の闇は晴れているわけではない。


ただ、今は少し自分が肯定的に物事を考えられるように
なってきたこともあって
もう一度勉強してみようかなという気にもなってきています。
社会に出て行くにしても勉強は続いていくしね。
法律も含め世の中のことが「わかる」日を目指して
勉強していきたいと思います。